「緬甸館雑字」とは

華夷訳語

中国明代には、外交使節との交渉や外国との書簡のやり取りのために、口頭通訳者を養成する会同館(洪武年間に設置されたが、もとは元代の制度に由来する)と、文書翻訳者を養成する四夷館(永楽5年=西暦1407年設置)の2つの役所が置かれていました。この制度は清代にも引き継がれましたが、四夷館は四訳館と改称し、乾隆13(西暦1748)年には両者が合併して会同四訳館となりました。これらの役所で編纂された語彙集や上奏文集を総称して「華夷訳語」と呼びます。

『緬甸館訳語』と『緬甸訳書』

『緬甸館訳語』

『緬甸館訳語』は「華夷訳語」のうち四夷館の中の緬甸館で編纂されたもので、「乙種本」に分類されます。緬甸館は当時のビルマ語の一変種(緬甸語)の翻訳を司る役所でした。 『緬甸館訳語』には数種の鈔本・刊本が現存しており、雑字(語彙集)と来文(上奏文集)の両方が完備しているものもあれば、一方のみのものもあります。ここでは『緬甸館訳語』の雑字部分のことを、西田(1972)に従って「緬甸館雑字」と呼ぶことにします。 西田(1972)は『緬甸館訳語』が「15世紀にビルマのアワ地域で話されたビルマ族の言葉を代表している」(p.17)と推定し、この言語を緬甸語Aと名付けました。(アワAvaはインワInnwaとも呼ばれ、当時上ビルマを支配していたインワ王朝の都があった場所です。)これに対してNishi(1999)は、『緬甸館訳語』で用いられるビルマ文字(緬甸文字)の綴字を根拠に、緬甸語Aの時代を15世紀末から16世紀初頭と推定しました(p.56, fn.13)。

『緬甸訳書』

『緬甸館訳語』と類似の構成を取りながら、内容が大幅に異なる『緬甸訳書』という書物が存在します。これは彭元瑞 (1731–1883)編『禮部譯字書十種』の中に含まれるものであり(西田1972: 15)雑字のみが知られています。雑字の門(部立て)の数と収録項目数からみて、清代に会同四訳館の中の緬甸館で編纂された故宮博物館蔵『緬甸番書』に対応するものと推定されます。 西田(1972)は『緬甸訳書』で用いられた緬甸文字が18–19世紀を代表するものであることを踏まえ、「18世紀の中頃、Alaungpaya王朝の初期、いまのビルマ中央地域で話されていたビルマ語を記録したもの」(p.17)と推定し、この言語を緬甸語Bと名付けました。

緬甸館雑字の構成

緬甸館雑字の構成は、西田(1972)巻頭の図版から、下記のようなものであることがわかります。
  • 1ページあたり2✕2の4項目
  • 1項目は計3行(縦書き)
    • 中央の行は漢語の語彙[本データベースのSenseフィールドに対応]
    • 右の行は中央行に対応する緬甸語Aの語彙で、中央行よりやや小さく書かれる(本来は横書きされるが、本書では時計方向に90度回転して書かれる)[本データベースのEntry trsl.フィールドに対応]
    • 左の行は右行の漢字による音訳で、やはりやや小さく書かれる[本データベースのPhonetic glossフィールドに対応]
この構成は、緬甸館雑字が、漢語で書かれた語彙調査票を用いて緬甸語Aの語彙を調査した結果であることを窺わせます。 『緬甸訳書』もほぼ同じ構成を取りますが、各項目は縦書きでなく横書きで、漢語語彙の上の行に緬甸語語彙、下の行に漢字音訳が配置されます。

西田龍雄 (1972)『緬甸館譯語の硏究:ビルマ言語學序說』(華夷譯語硏究叢書 Ⅱ)京都:松香堂.

本書の中核をなす第2章「緬甸語Aの音素体系」・第3章「緬甸館雑字」において、著者は(1)「緬甸館雑字」各項目の緬甸文字A表記を表音単位に分析して各単位に現代ビルマ語諸方言の構造を考慮してローマ字による転写を与え、(2)一方で各項目の漢字音注を明代末期の北京語の再構成音で置き換えることによって漢字音注の表音転写を与え、(3)その両者を対照することによって緬甸語Aの音韻体系を再構成し、各項目の緬甸語A形式を復元しました。対音資料を用いてビルマ語の古い段階の体系の復元を成し遂げたという点で、ビルマ語歴史言語学において極めて重要な一歩をなす研究です。